アキレス腱断裂&再断裂、そして再建へ

アキレス腱を痛めて生活がどのように変化したかを記録として残してみようと思います。最初に切れたのが2005年ですが、このページを書き始めたのは2012年です。最初の頃のことはかなり忘れてしまいました。

2005年3月初旬 何日かまでは覚えていない。職場の就業時間は5時半までだったが、その日は何か仕事が押してていつもより遅れて退社。職場のすぐ傍のテニスコートを5時半から6時半までの1時間予約してあった。日頃はテニスなどやらないのだが、嫁がやりたいというので、もうじき5歳のJrを連れてコートに急いだのである。中高とテニス部だったので、そこそこはできると思っていて気負いはなかった。
ただ、コートに着いたのは6時前で残り時間もないことからいきなりプレーを始めてしまった。しばらく、なんちゃてラリーをしているうちに、右足首に手のひら大の鉄球がどこからか飛んできて当たったのである。

その場に倒れて、あたりを見回すが何もない。子供が何か投げたかと思ったが、それらしきものもない。右足が痛くてビッコになるし、テニス続行は諦めて帰宅。

足首からふくらはぎにかけて腫れてるような感じで痛い。氷で冷やす。これが肉離れってやつかと思い、翌日病院に行くことにする。

翌朝一番で近所の整形外科へ。診察室に入り、アキレス腱を触られ開口一番「アキレス腱切れてますね」と。軽く言われたけど、僕の人生の中では結構大きな出来事である。厄年ってホントなんだと気づいたのは後日だったと思う。

現代医学と現代社会からすれば、珍しい怪我ではなく予後もいいのだろうが、charlie的には「捕食される立場なら逃げ切れないし、逆に獲物を追う能力も削がれた訳だから死に値する」と考えてしまう。一度死んだのだから、残りの人生はオマケをいただいたと考えてもう少し世のため人のためになるような生き方をすべきなのかもしれないと思う。

保存的治療の選択肢も軽く言われたが、スポーツするなら手術がよいと言われ迷わず手術を選択。確か翌日だったと思うが、局麻下でおしゃべりしながら繋いでもらった。麻酔が切れてからかなり痛かった記憶がある。一応入院したのだが、職場が隣にあったので、数日で入院したまま勤務に行っていた記憶がある。板付きの車いすで動いていたが、トイレの時に脚を下げるとめちゃくちゃ痛かった。

数日で退院しギプス生活に入る。松葉杖生活も慣れてきたいたが、職場の床が清掃で濡れていて松葉杖がすべり大転倒したりしていた。しかし、島での生活は車移動が基本なので送り迎えさえしてもらえれば極端な不便は感じなかった。

術後3周目、娘の小学校卒業祝いに赤ん坊のころに住んでいたマウイ島に行く約束をしていたため、ギプスを巻いたままハワイへ。ギプスも入水専用ギプスも作ってもらってボディボードも無理やりやっちゃいました。

結構できるもんでした

いつ頃ギプスを外したのか、もう定かではありません。しかし、約3か月後の6月のある日。台風スウェルの入った河口ポイントにテーピングで固めて入水。確か面はいまいちだった記憶があるが、忘れもしないフロントのボトムターン。リップを見上げるボトムで「ぶちっ」っと右足首に痛みが走った。すぐに上陸し、砂浜をびっこでもどった。その時は術後癒着してたところがはがれたのかもしれないと思いそのまま放置。サーフィンはまだ早いと妙に納得したのだった。あとから考えれば、この瞬間が再断裂だったのだ。

その後は大人しくニーボードに転向。夏はこれでやり過ごした。

そして冬。本当にまともな治療経過なら十分完全復活しているはずなのに、右ふくらはぎはいっこうに太くならず、いびつに上に吊り上った形である。鍛え方が足りないのかもと思っていたりして・・・


そして、まさかのskiデビュー
スキーなら足首が動かないので可能だった!

そうこうしているうちに1年経過したので、スノーボードに戻ったが、ふくらはぎが小さいし足首を固定できる筋力がなくて、面の荒れたフロントサイドは全くダメダメとなっていた。ごまかしながらも滑れるのでなんとなくこんなものかもしれないと納得していた。

サーフィンもできるようになり、さほど困ることはなかった。もともと筋力をきちんと使えてなかったからかもしれない。断裂して初めてわかる技術のなさである。

そんな感じで数年が過ぎた頃、あまりにも体重が増えていくので、トライアスロンを始めることになった。今まで走るなんて考えもしなかったが、やってみると結構楽しいことに気づく。しかし長距離走るようになり、左右非対称の脚に負担がかかり始める。右ふくらはぎ筋力がないので、右足首の内側外側に交互に痛みが来る。テーピングやアイシングに加え、インソールも作ってもらい対応するがなかなか厳しい。トレーニング量も多くなったがふくらはぎはいびつなままだ。

このあたりで、「これはアキレス腱つながってないかも」と気がついた。他人から見たら「馬鹿じゃないの?」と思われそうだが、現実がこうだから仕方がない。走り方や漕ぎ方など工夫を重ねて、宮古島トライアスロンも2回完走した。

しかし、2011年になり決定的な不利益が判明。以前から気になっていた沢登りを体験しに丹沢に行って、多くの方が簡単だという滝に歯が立ちませんでした。なんといっても小さい足場につま先だけで立ちこむことが出来ないのです。アキレス腱が最も必要とされる場面でした。

この頃から、少しずつ再診&治療に関心が向き始めました。日常生活はできても好きなことが出来ないのはもったいない。しかもまだ40代だし。

2012年に入りスポーツ医学に力を入れてそうな感じで行きやすそうな慈恵医大にターゲットを絞る。5月のある日、地下にあるスポーツウェルネスクリニックを初診。いきさつを説明して足を診てもらうと・・・「これは繋がってないんじゃないですか?」と。

なんとなくそうじゃないかと思っていたが、いざ宣告されるとかなりの衝撃である。我ながら笑ってしまった。

その後、島の病院でMRI撮影し知人の整形外科医に見てもらったが難しそうな顔してたから、これは一筋縄ではいかないのだろうなと感じた。

再度スポーツウェルネスクリニックを受診し、画像評価の上で足の専門医の予約を入れてもらう。

結局専門医に診察してもらったのは6月に入ってからだった。診察後手術の説明などを受けて日程まで決めてもらう。セカンドオピニオンという案もあるだろうが、地方から行くにはコストがかかりすぎである。診察していただいた医師の印象もとてもよかったのも決め手である。

8月に術前検査と諸々の手続きのためもう一度受診。これで計4回上京したことになる。

そして2012年9月3日ついに東京慈恵会医科大学付属病院にE棟8階に入院となったのである。

中央棟1階で入院手続きをしたら、E棟のエレベーターで8階にあがり部屋に案内される。6人部屋の窓側でもない廊下側でもない真ん中のはさまれた空間である。毎日2万円以上の個室料を支払うことのできるVIPクラスの人間なら、もっと快適なお部屋で入院できるのだろうが、あいにくそんな身分ではない。テレビカードを買い、ここ数日の旅でたまった洗濯物を片づける。今日までは体が自由なのでストレスなく歩き回れる。夕方には麻酔科の回診があり明日の予定を聞いた。

9月4日 手術当日。昨晩から絶飲食だが、手術は二番目らしく、一番目が終わってから呼ばれることになっている。10時過ぎには妻も到着。なが〜〜い待ち時間を経て、結局呼ばれたのは午後2時前だった。看護師さんと歩いて手術室に向かう。麻酔科医について若手の研修医が二人いる。よろしくと言われるが、「まぁ、私でよければ勉強してください」という気分だ。

次に気がついたときがいつだったか定かではないが、朦朧とした感じで夜を迎え、痛みが来たら押してくださいと言われたボタンも、押して薬液が入ると幾何学模様の幻視みたいのが見えて落ち着かなくなるので、途中から押すのを止めた。痛みはあるも我慢できる範囲だった。

翌日にはバルーンも外れ、持続点滴も外れ、車いす許可をもらって院内を移動できるようになった。慈恵医大は継ぎ足した建物が多く、廊下に微妙な坂道が多い。車いすで登るのは結構一仕事だった。トイレは身障者用を使わせていただく。右太ももは術中に駆血帯のようなもので縛っていたらしく痺れが残ったがいつのまにか消えていた。

ここから退屈病棟生活が始まった。一生のうちにこんなに何もしない時間はそうないだろう。文庫本読んだりダラダラテレビ見たり・・・。テレビと言えばテレビカード、沖縄に比べると異様に減りが速い。さすが都会は高いと感心したもんだった。

朝の食事が終わると時間をかけて洗面。昼前に軽く木会館で休憩。昼食後はローソンで買った缶コーヒーを高木会館で飲みながら電話するのが日課になった。もちろんたまった仕事をしてもいいのだが、痛みもそこそこあるし、動きも不自由なのでイマイチ気分じゃないのである。

それでも書き損ねていたいくつかのレポートを作成することはできた。Xi役に立ちました。

いとこの陽子さんや母、ボビーもお見舞いに来てくれた。ありがとう。

9月11日 術後1週間目。ギプスをカッターで外す。熱で溶かすタイプの奴でちょっと怖い。開いてみるとふくらはぎのあたりはホッチキスで留めてあり、創もきれいなのでその場で抜釘(表現が正しいかどうかわからない) そして核心の足首部分はきっちり引っ張って縫ってあった。そして、足首の角度を少しきつくして再度ギプス固定。ひとつ前進した気分になれてとても嬉しい。

9月12日 創の部分に窓を開けてもらった。

9月14日 晴れて退院。朝一から松葉杖だけで院内を駆けずり回ったが、これが意外に大変だということに気がついた。松葉杖であるがゆえに両手は塞がっている。荷物はザックのみ。右足はギプスだから地面に着けない。三本脚歩行である。
タクシーから降りた浜松町のモノレール駅でさえ移動距離が相当長く、汗だく体力勝負であった。羽田空港内もこれまた重労働。改めて不便さを思い知らされた。

しかし、沖縄で退院祝いで乾杯。久々に飲酒した。

アパートの階段の段差が大きいのと、一部手すりがないのとで、一日一回だけの外出パターンで過ごす。でも雨は降らず快適な数日を過ごした。傷の方は浸出液もなく経過は良さそうに見えた。

9月20日 48回目の誕生日は久留米にある病院見学という形で仕事始めとなった。三本脚での見学はなかなか大変だった。

9月21日 福岡から東京へ外来受診。やっとギプスがとれて装具装着。なんかガンダムみたいな仰々しい感じの装具である。慈恵医大はこれなのか。ドイツのスキーメーカーが作っているらしい。

9月27日 まだ両足揃えられない右足は精一杯の角度

10月5日 4週ちょっと経過しての外来受診で東京。気になっていたジクジクはやはり感染。担当の先生も悩んでいてが、後手に回らないよう、プチ手術。感染部位を切り取って引っ張り合わせて縫い直してもらった。のはいいが、局所麻酔がきれると激痛。新橋のホテルでのた打ち回った。

10月6日早朝から包交してもらう。浸出液、出血も少なく痛みも落ち着いた。あとは島の整形外科医と相談して感染対策してくれとのこと。とりあえずフロモックス3×食後でもらったけど、時間依存性を考慮してほぼ6時間おきに服用。5日ほどで飲みきり、ミノサイクリン100mg/day一か月とした。


ふくらはぎまわり 左41cm 右37cm
なんとか両足でまっすぐ立てる

10月15日 初めて地元の整形外科のリハビリに行った。目的は自転車こぎ。一月半ぶりに右足に靴を履いて20分漕いだ。とても嬉しかった。

10月16日 術後6週目 昨日リハビリしたせいか、松葉杖で歩く時ももっとふくらはぎを使おうと考え、職場内を歩いていたら右ふくらはぎに「ピッキ〜〜〜ン」と痛みが走る。外見上は何ともないが肉離れっぽい感じ。焦りは禁物なのか・・・安静を意識することにする。がっくりだ。

10月18日 あまりダメージは残ってないみたい。

10月26日 地元の整形外科で抜糸。大事をとって3週間縫ったままにしておいたのだ。僕の目から見ても傷はキレイについていて問題はなさそうに見えた。

11月2日 久しぶりの受診で東京。傷は感染もなく綺麗です。連続性もよく経過は良いらしい。ほっと安心する。そろそろ松葉杖要らないんじゃないかと言われたが、ないと歩行速度が極端に落ちるので、悩んだあげく11月いっぱいはレンタルし続けることにした。診察を終えて子供の運動会参加のために沖縄へ戻る。

11月7日日 9週経過している。外勤の日。右足にランニングシューズを履いて松葉杖をもってグランド一周してみた。少しいい感じ、嬉しくなる。

11月10日 今日から仕事中は松葉杖卒業とする。アキレス腱の違和感はまだまだバリバリ存在する。そろそろ、装具を外す生活も考えたいが怖い。ちなみに家の中では数週前から装具なし。

2013年 2月10日 沖縄の新春ロードレース シニアクラスに出場。4位。短距離は苦にならない。

2013年3月1日〜3日 スノーボード。ゲレンデはフロントサイドが全くダメで手術前にも戻ってなかった。スノーシューでの登り3日間で膝裏の筋を伸ばしたらしく膝がゆるゆるになってしまった。

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